2010/02/09

JAZZ FESTに行くぞ〜 1988年その2

ポスト @ 11:59:09 | HAVANA通信連動企画

祝!セインツ初優勝!!!

・・・といっても「アメリカン・フットボール」という名前なのに、ボールを蹴らない人間がたくさんいる競技を認めるわけにはいかないんですがね。まぁこれはまた別の話で。ね、K松君(笑)。

でもね、これで街が活気づけば素晴らしいことだと思います!!これでマルディ・グラ〜ジャズ・フェスの5月まで、この街はお祭り騒ぎなんだろうなぁ・・・・よかったよかった・・・・・。

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さて、いよいよ会場の「フェアグラウンド」に足を踏み入れたのであります。

とにかく夢のような日々でした・・・・。それこそたくさんのライブに遭遇いたしました。この年で思い出せる有名ミュージシャンは・・・・

BBキング、ジェイムス・ブラウン、アル・グリーン、アルバート・コリンズ、リトル・フィート、ロス・ロボス、ウイリー・コロンなどなど

当然地元のミュージシャンもアホみたいに観れた。

アーマ・トーマス、ドクター・ジョン、アラン・トゥーサン、バックウィート・ザディコなどはもちろんだが

衝撃だったのはなんにも予備知識がなかったニュー・オーリンズの奇才ギタリスト、スヌークス・イーグリンだ。

今でこそ何度か来日し、日本でも知名度が上がったが、当時はそんな名前を口にする人達など周りには皆無であった。

たまたまブラブラしていたステージで次のライブのセッティングをしていたのだが、よくみるとベーシストは顔を知っている人だった。ミーターズのジョージ・ポーターJrだ。

「あ、ジョージだ!!ちょっと観てみようかな?」

と最前列の柵にもたれかかり、ステージが始まるのを待っていた。

現れたのはちょっと猫背の盲目のギタリストだ。

ギブソンのシンラインのフルアコを持って椅子に座る。メンバーは彼とジョージ、そしてドラムはハロルド・バティステJrの3人。

「なんか、渋いブルーズでもかますんだろうな」

なんて思ったら一発目の音からとんでもなかった!!!!

バリバリ!!!グギグギ!!!コケ〜〜!!!ピギャピギャピギャ!!!!!

とそのギターからは50年代全盛期のゲイトマス・ブラウンよりも凄いのではないのか、と思わせるくらいのギンギラギンのギター・サウンドが飛び出してきたのであります・・・・・

しまいには背中でギター弾き始めるし

もう笑うしかなかった。あまりにも素晴らしすぎて(笑)。

僕の中では最大の「発見」でした。

帰国してから、それこそみんなに彼の名前を言いふらした。

「スゲーよ、スヌークス!!!おったまげたっすよ・・・」

その後、渋谷芽瑠璃堂で「発見」した彼のインペリアル時代のアルバムはそれこそ擦り切れるくらい聴いた。

ほどなくして、BLACK TOPというレーベルから彼の新作アルバムが次々と出されるようになった。

そりゃ、あれだけ凄いライブやってたらみんな放っておかないよなぁ。

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それから初めて観たマルディグラ・インディアン、ザ・ゴールデン・イーグルスのライブも衝撃でした。きらびやかなインディアンの衣装でパーカッションとチャントのみで繰り返されるコール&レスポンスはまさにカオス。もう僕はトランス状態(笑)。

YouTubeの映像では、ゴールデン・イーグルスのライブ映像はバンド演奏しかなかったので、他のマルディグラ・インディアンのライブを載せときます。こんな感じだったなぁ・・・・

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それから忘れられないのは・・・・

会場の中をザリガニをしゃぶりながらブラブラ歩いていたら、どこからともなく管楽器と太鼓の音が聞こえてきた。

それがどんどんこちらのほうに近づいてくるのだ。

僕も音につられて近寄っていった。

すると、それはなんとダーティー・ダズン・ブラス・バンドが会場の中をパレードしていたのだった(笑)。

当然ノーマイクで。そのまま昔ながらのマーチング・スタイルでのパレード。大勢の人を引き連れてフォンキーなサウンドを奏でていたのだ。

僕もその人の群れに紛れ込んで、オーリアンよろしく大パレードだ!!

これまたバンドは違うけど、まさにこんな感じでした。

こんなの体験したら人生観変わりますよ、ほんと(笑)。

最近のDDBBはドラム・キットを入れたりギターを入れたりで随分様替わりしたが、あのファンキーさは健在である

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目当てのアーティストがいない場合は、よく「ゴスペル・テント」で時間を潰した。

ここでは地元のゴスペル・クワイア(合唱隊)が延々と唄い続けているのだが、上手い下手とか関係なく、そのエネルギーに圧倒され続けた。

僕は無宗教だけれど、これを体験するといろいろ考えちゃいますね(笑)。これは「アリかな?」と。。。。文化の違いをまざまざと感じましたねぇ。

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会場でのライブがない時は、フレンチ・クーオーター内を散策して、ストリート・ミュージシャンとジャムったり喋ったりしていた。

ある時、ジャクソン広場の一角で演奏する若い奴らのブラス・バンドに出くわした。

演奏は非常に拙いものだったが、なんか微笑ましくてズ〜ッと聞き入っていた。

終わったあとリーダらしきトランペッターが話しかけてきた。僕と同じ歳だったかな?

「どうだった?俺たちの演奏は????まだまだだけど、俺たちはやり続けてビッグになるんだ!!俺たちの名前を覚えていてくれよ!!!!」

・・・・帰国後、いつものように芽瑠璃堂に寄ると、見慣れないブラスバンドのレコードがあった。

ジャケットにはどこかで見た顔が・・・

「あ、彼らだ・・・・」

アーフリーから出ていたそのレコードのリリース年は1984年。レコード出してたんだ〜!!

そのバンドの名前は「リバース・ジャズ・バンド」後のリバース・ブラス・バンドだった。

演奏はホントに拙いけど(笑)、僕はこのレコードが大好きだ。「気持ち」が感じられるんだよな、なんか。

僕と話していたのはカーミ・ラフィン。

彼は今や「21世紀のサッチモ」と言われるくらいのニュー・オーリンズを代表するトランペッターになった。

おめでとう!!凄いなぁ・・・・・・「継続は力なり」だね。

以下次号・・・・・

2010/02/08

JAZZFESTに行くぞ〜!  1988年 その1

ポスト @ 13:11:51 | HAVANA通信連動企画

なんだか意図せず、すっかり「旅行記」の様相になってきましたが・・・まぁいいか。自分の価値観みたいなのを随分決定づけたものなのでね。書いておかないと。

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さて、ようやくフレンチクオーター内の宿も決まり、当時まだあった「ハードロック・カフェ」もおのぼりさん感覚で詣で(ホントにどうでも良かったが)、念願のガンボも食し、いよいよ目的のジャズフェスの会場に向かうことになった!!

「NEW ORLEANS JAZZ FEST」は1970年にコンゴ・スクエアで始まった小さなフェスティバルだったが(と言っても、一回目の出演者にはデューク・エリントンとマヘリア・ジャクソンというとんでもない名前がある!!)、郊外にある競馬場「フェアグラウンド」に場所を移し、今やアメリカ最大の音楽フェスティバルとなった。

競馬場に設けられた9つのテントで繰り広げられる音楽は多種多様だ。「ジャズフェス」という名前ではあるが、ジャンルは全くもってガンボのようにごった煮。ロック、フォーク、トラディショナル・ジャズ、ゴスペル、クレオール・ミュージック、ブルーズ、R&B、ソウル、ラテンなど、有名ミュージシャンから地元のアマチュアグループまでなんでも観れてしまう、夢のような日々が送れる場所なのであります!!

チケット代も安い!!・・・いや安かった(笑)。

今調べたら2010年は60ドルもしたらしいが、それでも新潟でやってるのに日本最高峰の山の名前を冠したウンコフェスに比べたら遥かに安いでしょ?

ちなみに1988年当時のジャズフェスの入場料はなんと10ドル。当時の為替は120円くらいだったから、なんと一日1200円で見放題なのだよ・・・。

これを経験しちゃってる身としては、やっぱりいろんな矛盾を感じて、苗場へ行こうという発想すら浮かばないんですよね。

その前に、その金を払って観たいと思うミュージシャンが一人もいないんですけどね(笑)。

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カナル通りの真ん中にあるバス乗り場から、僕とS崎はフェアグラウンドへ向かった。

バーガーキングがあった交差点を右折し、会場付近で「それらしき」人達がみんな降りるので、僕らもバスをあとにした。

音楽って、ある風景と密接に繋がって脳裏に焼きこまれるものなのだが、僕の場合・・・・

そんな場所に出くわした。

フェアグラウンドに歩いて向かうのには、周辺の黒人居住区を通り抜けなければならないのだが。

その道端に無造作に喰い捨てられていた無数のクロウフィッシュ(ザリガニ)の殻と共に思い出すのがある光景。

そんなに大きくない一軒家の軒先で、腰つきの大きいロイクの婆ちゃんが洗濯物を干していた。

ちっちゃなトランジスタ・ラジオからどこからともなく流れてくる唄に彼女が合わせてハミングしていた。

その曲はミリー・リパートンの「ラヴィング・ユー」だった。♪シャラ・ラ・ラ・ラ〜シャラ・ラ・ラ・ラ〜♪というあの曲だ。

まるで映画の1シーンのようだった・・・・僕の中では・・・・・

今でもあの曲を聴くたびにあの光景を思い出すんですよねぇ〜。なぜだか凄く幸せな1カットとしてね。

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そして忘れられない出来事があった。

会場に向かう時、ある白人のカップルが僕らに話しかけてきたのである。

「ヘイ!!ジャズフェスに行くのかい??

僕ら7ドルの前売りチケットが一枚余ってるんだけど、よかったら買ってくれないかな?」

先ほど書いたように当日チケットは10ドルである。3ドルも安い。迷わず僕は「いいよ〜」と言った。

なんだ、アメリカ人って優しい人ばっかりじゃないか!これぞ南部ホスピタリティなんだな・・・なんて思ってた。

ところが財布の中をみると、あいにくこまかいお金がなかった。

申し訳ないなぁ、と思いながら10ドル札を彼らに出した。

「ごめん、こまかいのがないんだけれど、おつりあるかな?」

すると彼らは僕の10ドル札を鷲づかみにしてこう言ったのだ。

「おお!!ありがとう〜!!!ラッキーだよ!!!」

と言って、彼らは僕から足早に過ぎ去って行こうとしたのである。

僕は当然こう言った。

「ちょっと待ってよ!!僕は今10ドル札を出したけど、おつり3ドルがあるか訊いたんだよ・・・・」

そしたら彼はこう言った。

「僕は7ドルでイイって言ったよね?けど君は10ドル出した。当日券は10ドルだ。君はなんの損もしていない。僕が7ドルと言ったのに10ドル出した君の責任だよ。僕はラッキーだった。アリガトね〜」

言葉が通じなかったのが問題だったのか???

いやいや、この時は一応現役英文科の学生である。このくらいの日常会話くらいはこなせる。

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確かに僕は「損」はしていない。普通に10ドルの当日券を買おうとしていたのだから、そのまま流せる問題だ。

けど、こういう発想自体がビックリしたのである。「これって俺の『責任』なんだ・・・・」

確かに彼は「Your responsibility」という言葉を使ったのだ。

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この旅行で、実は「アメリカに永住したい」という密かな野望を持っていたのだった。

こんなに素敵な音楽を生み出したこの国で全てを知ってみたい、と本気で思ってた。

けどこの「事件」を契機に、僕の彼らに対する不信感は一気に強まった。不信感というか、相容れない感かな?

まぁ非常にステレオタイプの見方ではあるが。あれから20年以上経つが、基本的に僕の知り合ったアメ公はすべてこの種類の生き物だ。

どんなに仲良くなろうとも、最終的にはこの「発想」のもとに人格が形成されている。

なんで、こういう発想になるのか?

だから未だに僕にとっての「アメリカ」とは興味の対象ではあるのだが。

大して突っ込んではないけれど、根本思想であるキリスト教の各宗派についてもちょこっと勉強してみた。

もともとが英国国教会から逃れた清教徒(ピューリタン)が作った国である。アメリカが拡大した理由に彼らのプロテスタント的思想の「大義名分」が根本にある。ここでは詳しく述べないが。

だからこそ自己責任が身上であり、だからこそその「自由」の国、アメリカに流れてきたカトリック寄りの「移民」たちが素晴らしい民衆の唄を生み出すのだが。・・・・・いやいや軽々しく書ける内容ではないな・・・・・この件はもうちょっと勉強してからにします・・・・・。

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ともかくだ。

今の僕は「アメリカ」が大嫌いだ。

全てはこの事件に由来する。

嫌いというか、この発想を持つ人間になりたくないのだ。

そもそも世界中の人々が愛する「フットボール」という競技を理解し得ない人達に何を話すことがある???(笑)

彼らは世界の「異端」であり、人類史上最大規模の「実験国」なのである。

で、それは21世紀の今、「失敗」としていよいよ我々の前に結論を見出そうとしている。

それに気がついていないのは当の本人達だけなのだ。そしてGHQにより思想統制をされた事に気づかない日本人達・・・・

しかしながら僕は

アメリカが生み出した音楽を愛好し、ジーンズを愛し、楽器を愛し、Tシャツを愛し、アメリカ50年代の文化遺産のスタイルを生活の基盤としている。

大いなる矛盾だ(笑)。

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僕はこのアメリカに対する矛盾を抱え毎日を生活している。

店のブラウン管から漏れているのはフットボール、しかしスピーカーからは基本的にアメリカという国から生み出された音楽だ。

けど・・・・・

今考えるのは、矛盾を抱えていない人間なぞ信用できないだろ?ということ。

人間誰でも矛盾を抱えて生きている。

そのことを隠して、もしくはごまかして生きていくのか?

それともそのことをはっきり認識して、それでも自分に嘘はついていないから全部受け入れて「笑いながら」生きていられるか?

僕は後者を信用する。

人生に矛盾のかけらもない人達は、もはや新興なんとかとか、啓発なんとかの域だと思う(笑)。

その人達はなんの迷いもないだろうから、それはそれで素晴らしいことだと思うが。だから僕はそのことに対してなんにも否定しない。

けど、僕の考え方とか嗜好とかと違うんだよな。

だからあんまり近寄りすぎないでくださいまし(笑)。ある程度の距離を保てば、うまくやっていけるので、ね。

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旅行中のこういういろんな事を契機として

僕は自分が「日本人」であるということ、というか、今住む場所で生きていくということを凄く意識するようになりました。

なんだすっかり話が本題とそれましたが(笑)。次はキッチリ戻します・・・・ゴメンネ・・・・・・

以下次号

2010/02/07

本日も営業いたします〜!

ポスト @ 13:50:45 | お店

寒いっすねぇ・・・・寒い。。。。そして代表戦も×××

M氏がこう言いました。

「この冬は、今までの人生で一番寒い・・」と(笑)

昨日は、あの暴風の中、またしてもチャリで所沢まで買出しに行きましたが、あまりの風に死ぬかと思いました。チャリンコが全然進まない・・・。北関東空っ風で漕げず、しまいには降りてチャリを手押しせざるを得ないあの高校時代を思い出しました。

ということで、本日日曜日もいつものように営業いたします!!

お暇な方は寒さにめげず是非遊びに来てくださいまし!!!

ちなみに、先週日曜日は久々に休みを頂いたのですが

当然休みの日は飲むこと以外、やることが見当たらず

4〜5件はしごして2万5千円も使ってました・・・・

あ、当然風俗なぞ入ってないですよ(笑)そんな金あったらレコード買う人なので。

かつ移動時の記憶がまったくない。そう、僕はおそらく「どこでもドア」を持っているのだと思います(笑)

しかしなぁ、休んでいないほうが健康的に生活してるんだよなぁ

しょうもないなぁ、ホントに・・・・・

寄らせていただいたお店の方々、ご迷惑をおかけいたしました!!!

・・・・たぶん・・・・ね・・・・・・

2010/02/04

いよいよ上陸 NEW ORLEANS!!

ポスト @ 12:09:48 | HAVANA通信連動企画

遂にニュー・オーリンズ上陸です〜!!

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ということで、友人S崎を誘い、遂に初の海外旅行に行くことになりました。

時は1988年4月。目的は当然「ジャズフェス」を観るためだ。

まずはアメリカ大使館にてビザの発給を受ける。そう、当時はまだアメリカもビザが必要だったのだ・・・。やたら並ばれされ一日がかりの作業だった。

飛行機はデルタだった気がする。ポートランド〜ダラス・フォートワースを経由してニュー・オーリンズへ。そこからバスでメンフィス〜ナッシュビルへ向かう約1ヶ月の旅。

成田から15時間以上かかり、ようやくニュー・オーリンズに到着した。

空港のバゲッジ・クレームに向かう。すると・・・・・僕の荷物がない・・・・・似たようなバッグはあった。おそらく誰かが間違えてピック・アップしてしまったのだろう、とのこと。

いきなり大トラブル(笑)。

受難はまだまだ続く。

ニュー・オーリンズのイヴェント時のホテル事情をまったく理解していなかった。

「まぁなんとかなるだろう」とタカをくくっていたのである。

とりあえず空港からシャトルバスで「地球の歩き方」で見たホテルまで運んでもらった。

ポーターにチップを渡し、ホテルの中へ。

「Do you have a room?」

しかしながら、ホテルマンは首を横に振るばかり・・・・・

時刻はもう夕方。フレンチ・クオーター内のホテルを何件か回ってみるが全て満室・・・・

夕暮れが迫っている。土地勘もない初めての場所だ。

わけもわからず、とりあえずカナル通りをトボトボと歩く情けないポンニチの二人。

遂にフレンチ・クオーターの端まで来てしまった。辺りはますます暗くなる。

右側に駐車場が見えた。ガタイのいい、警備員が見える。ふと右腰に目がいく。

・・・・・・・・・・ホンモノの拳銃だ(笑)・・・・・・・・・・・

そう、ここはアメリカなのだ。銃を持つのが身を守る常識の国。

荷物もない、ホテルもない、挙句の果てに真っ暗闇、って俺は吉幾三か(笑)

そんな時、あまりにも情けない姿をみるにみかねたのか、一人の白人が僕らに声をかけてきた。

「おい、おまえらどうしたんだ???なんか困ってるのか???

・・・・ん?宿がない??

そうか・・・空いてるかどうかわかんないけど、この先の左側に一軒あるから、ちょっと行ってみな」

おおっ!!!鬼畜米英アメリカ人、なんと優しいのだ!!!こんな敗戦国の若造を助けてくれるなんて!!!

ワラにもすがる気持ちで、そのホテルまで歩いた。歩くこと約10分、なんとかたどり着きロビーに赴いた。

なんと偶然にも一部屋キャンセルが出た、という。

助かった〜〜〜〜。♪おいらは宿無し byツイスト♪にならずに済んだ・・・・。そんな唄が出てくる余裕などひとつもなかったが(笑)

とにもかくにもようやく宿が確保できた。僕の間違えた荷物も空港に連絡を取ってくれて、明日届くという。

こうして初日にして南部の「ホスピタリティ」に触れることができた、忘れられない日となったのです。

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宿が確保できた途端、急激にお腹が空いてきた。

ニュー・オーリンズといえば飯である。ガンボ、ジャンバラヤ、エトゥーフェ、レッドビーンズ・アンド・ライスなどなどご当地の名物料理はいくらであるのだ。

しかし、夜も更け、生拳銃を目の当たりにした我々には店を探す余裕など一つもなかった。

とりあえず腹ごしらえのためだけに入ったのは、近くにあったチャイニーズ・レストランだ。

普通「中華」といえば、とりあえずそんなにハズレがなく、どんなものでも目をつぶれるものだが

ここの料理は今までの中華の概念を根本から覆すほどマズかったのであります(笑)。

どんな料理ベタな奴の「創作料理」でも、ここまでマズイものには未だかつて出会ったことがない。

こいつらに「クックドゥー」を教えてやりたいよ・・・・・

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とりあえず上陸初日はなんとか過ぎた。

翌日はツーリスト・インフォに行って2週間滞在する宿探しからだ。

これはあとから気がついたことなのだが、このホテルに結局2日滞在したが、場所はカナル通りを北上して高速道路のあるすぐ手前にあった。

ニュー・オーリンズの街に詳しい人ならすぐわかることだが、実は相当危険でヤバイ場所である(笑)。

いやはや「知らない」ということは恐ろしいことですよねぇ・・・・何事もなくて本当によかった・・・・・・

以下次号

2010/02/02

僕が如何にしてNEW ORLEANSにハマッタか? その3

ポスト @ 10:55:42 | HAVANA通信連動企画

さてさて、本日も大学3年の時の続きです。

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不思議なもので、なにかにハマると自分の身の回りが一気に変わっていくのである。人との出会いや書物やら、とにかくありとあらゆるものが運命のように出現してくるのだ。

おそらく今まではまったく気にしていなかったから、ただ単に気づかなかっただけなのかもしれないけど(笑)。

あとは、なんとなく「マイブーム」であっても、実は近くの人達が同じタイミングで同じものに興味を抱いていたり。

そういうのって、実は普段の生活の中になんとなく「キーワード」がちりばめられていて、それを拾う同じような感覚の人が回りに多いからなのかもしれないし。

レコード屋や本屋に毎日のように行っていると(今は全然いかないけどね:笑)、やはり「その時の旬」みたいなのが存在して、それがなんとなく体の中に入っていき、気になってくるのかもしれない。

まぁいいや。

今回は書物のお話。

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当時P−VINEから出ていた「ニュー・オーリンズR&Bトレジャー・シリーズ」のレコード解説やら、ライノ等のオムニバス盤に入っているミュージシャンの名前を追っかけて輸入盤を漁りまくることで、なんとなくおぼろげに音と名前が蓄積されてきた。

あとは全体の時系列や相関関係がわかれば、いろんなことが整理されてくるのであるが・・・・。

そんな折、「ミュージック・マガジン」で待ってましたとばかりに特集が組まれたのである!!

1987年の7月号。特集は「再訪ニューオーリンズ・ミュージック」だ。

今から考えると、たった27ページ、アルバム紹介も30枚ポッキリしかないのだが、とにかく今までなにひとつまとまった情報もなかった僕にとってはもう目から鱗だったのである!!!

もう何百回というほど読み直し、その30枚を探しまくり(実はまだ全部そろってないけど・・・)ますます泥沼にはまっていくのであった。

あぁMM誌、昔は役に立ってたなぁ(笑)。

それともう一冊大事な本がある。

ペリカンブックスから出ていたペーパーバックでJOHN BROVENという人が書いた「RHYTHM & BLUES IN NEW ORLEANS」という本。

これ、銀座の輸入本屋で見つけたのか、それとも向こうで購入したのか忘れてしまったが、とにかく読みまくったなぁ・・・・。

英文科在籍だった僕が初めて読破したペーパーバックが実はこの本。やっぱり興味がないと英文なんて読まないわな。そして知りたいという意欲があれば、なんとか読めてしまうもんなのであります(笑)。

これで全体像はつかめた!!!

そしてあとはそこから得た知らない音を、ひたすら探し当てる日々が続くのである。

余談であるが、この段階で、実はニュー・ウエイブ以前の70年代に日本でニュー・オーリンズ・サウンドが研究され、実を結んでいたなぞ知る由もなかったのでありますが(笑)。

張本人たちは細野晴臣、久保田真琴、大瀧詠一、そしてその関連の人々。

それを知るのはもう少し先になる。大学を卒業してからだ。それ故に「発見」したときのインパクトはあまりにも強力でしたよ〜

YMOを中学生の時リアルタイムで経験しながら「あれはでっかいラジカセを買ってもらえる裕福な家のお坊ちゃまが聴く、僕には縁のない音楽だ」と勝手に決めつけていた、キャッツ・アイの3万円のフォーク・ギターをかき鳴らす吉田拓郎と井上陽水とチャゲ&飛鳥を敬愛する田舎のフォーク少年は、そこにたどり着くすべは皆無だったのでありますよ・・・・

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話は前後するが、MM誌の特集でとにかく気になった記事が「ジャズ&ヘリテージ・フェスティバル’87」というレポートだった。レポーターは文屋章氏。

通称「ジャズフェス」。4月の最終週〜5月の第1週にかけて行われる、2月のマルディ・グラに次ぐ当地の一大イヴェント。そして今やアメリカ最大の音楽フェスティバルかもしれない。

このレポートを読んだ時、僕の心にも火がついたのだ。84年のドクター・ジョン、86年のネヴィル・ブラザーズの各初来日もまったく観る機会など持つこともなかった僕としては、生でニューオーリンズ・サウンドを体験したのは実に少なかったのである。

思い出してみれば、第1回ジャパン・ブルース・カーニバルのジョニー・アダムス&アール・キング、そして愛知は豊橋で行われたブラック・ヘリテージ・フェスティバルのダーティー・ダズン・ブラス・バンドのみ。

・・・・あれ?

今調べてみたら両方とも86年だった。

けど、観た時には彼らを知っていた(はず)だから

とういうことは吾妻さんのライブを観たのは86年だったのか・・・・・

すみません、大訂正です!!!!

大学2年の時からハマッってたんですね(笑)。そう考えると、なんでネヴィルの初来日行ってないんだろ????

昔のことはやっぱり詳細まで思い出せないや・・・・・

まぁいいです。

とにかく僕にも火がついたのですよ。

これは行くしかないっしょ!!!!!

憧れの地、ニュー・オーリンズへ!!!!

ちなみにそのレポートを書いたB屋さんであるが

その後ひょんなことで知り合い、僕のバンド「大黒屋」を素晴らしいビートでロールしてくれた、故三宅さんの前のバンド「ジェリー・ロール・ベイカーズ」のヴォーカリストだったことが後に発覚した(笑)。

そして21世紀が10年も過ぎようとしている現在でも、僕の中では人生を変えてくれた勝手に「師匠」として、未だにお付き合いをさせていただいている。

三宅さんが僕に残してくれた「人」という「財産」にはいくら感謝してもしきれません。

Wタルさんにしてもそうだけど

いろんな人を紹介してくれて、そういう繋がりが今の僕を支えてくれている。

亡くなってしまったから余計にそういうことを感じてしまうのかなぁ???

けど本当にお金には替えられない、そういうことが僕の財産なんですよね。

ほんとうにありがとうございます・・・・・・

以下次号

いよいよ上陸です!!!

2010/01/30

僕が如何にしてNEW ORLEANSにハマッタか? その2

ポスト @ 10:50:28 | HAVANA通信連動企画

さて、本日は僕の濃厚な大学3年生の時のお話・・・・

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とにかく「ニュー・オーリンズ」というキーワードは見つかった。

が、しかし!!

時代は遥か23年前の話である。この21世紀も10年経っている状況とは全く違うのだ。

いろんな事を知りたいにも、その術は非常に限られている。なんでもパソコンを開けて検索キーを入力すればある程度の知識を得られる世の中とは全く違う。

ましてやミクシーなるコミュニティ・サイトがあって顔の見えない「仲間」と誤解している人達がいるわけでもなく

いわんや「××ナウ」など意味不明な日本語完全崩壊の、一体おまえの日常を人に公開してなんのためになるのかまったく理解不能のツイッターなる本末転倒の道具があるわけでもないのだ(・・・いやいや、ゲーマーと同じくらい僕の中では現在軽蔑対象中です:笑 ツイッターやミクシーを嫌悪するのは僕の性癖もあるからで・・・・これまた別の機会に)。

情報を得るのにはとにかく歩くこと。

音楽の情報を得るのだから、行く先は決まっている。

レコード屋さんだ。

とにかくバイト代は、ほとんど音楽のために費やされた。飯代を浮かせるために飲食系のバイトに勤しんだ(結局これが今の仕事に繋がっているのだが・・・)。

僕の通っていた大学は御茶ノ水だ。駅から学校に行き着くまでにレコード屋があるわるわ(笑)。僕の日課は毎日ディスク・ユニオンの「新着箱」をチェックし、大学裏の「錦華公園」でビールを飲みながら収穫物を眺め、でそのまま帰る。よく卒業できたなぁ・・・・

それからお世話になったのは、青山の友人宅に向かう骨董通りの途中にあった伝説の「パイド・パイパー・ハウス」。猫背でデカイ気持ち悪いバイトの奴は、ピチカなんとかというくだらないバンドをやってた。ここの相場は高めだったけど、品揃えは良かった。なにせエルヴィス・コステロをして「ナンバー1レコード・ショップ・イン・ザ・ワールド」と言わしめたところだ。

それから西新宿の「ウッドストック」。中古盤はなかったけど、輸入ものの充実度はなかなかだった。

忘れちゃいけない、渋谷と吉祥寺の「芽瑠璃堂」。2階が中古盤、3階が輸入盤だった。店長のN山氏とはその後も付き合いが続く・・・。吉祥寺の品揃えもなかなかなもので。ここはアーフリーとかフライライトという一般社会からすると誰も知り得ないレーベルが異常に充実してた。中道通りにあったなぁ・・・・。

そしてこちらも日参していたのが、下北沢の「フラッシュ・ディスク・ランチ」と「レコ・ファン」。笹塚のアパートから歩いて15分くらいの距離だ。フラッシュの店長のTさんは僕の顔を覚えてくれるやいなや、とにかくいろんなレコードを僕に教えてくれた。プロフェッサー・ロングヘアとゲイトマウス・ブラウンの競演レコードなぞはこの人から「今日入ったよ!!」って教わった盤だ。

あとこの方からいろんな下北音楽系の飲み屋を紹介された。近藤フサノスケさんの店「STOMP」や「レイズ・ブギー(現ラ・カーニャ)」なんかはそうだった。

「君さぁ、とにかく飲んでいろんな人と知り合わないと!!!そういうために飲み屋はあるんだよ。一人でいろいろ追求するのも大事だけど、そういうところでいろんな人といろんな話をすればもっと世界が広がるよー!!」

って言ってくれたのも今に繋がってるんですよね。絶対本人は覚えてないだろうけど(笑)。今や言われる立場から言う立場になりました・・・・。

・・・懐かしいなぁ、今度ビラ置いてもらいに久しぶりに店に顔出そう・・・・シモキタ、もはや鬼門なんですけどね(笑)。

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数少ない情報を頼りに、いろいろ紐解いていく作業は大変だが、今から思うとあんなに充実していた時期もない。

そんな時に本当に助かったのが、レコード屋に置いてあるチラシやミニコミだったり、日本盤に付いている解説だったりしたのだ。

僕がいつからか日本盤を買わなくなってしまったのは、「解説」が「感想文」に成り果ててしまっているのが非常に多くなったから。僕らはそこから次に繋がる情報が欲しいわけで、感想を聞きたいわけではないのです。「どう思うか」もその人の顔が見えていれば大事なのかもしれないけれど、そうではない人にとったら、小学生の読書感想文みたいな文章を読まされて、輸入盤より高い金額をレコードやCDに払わされるのはたまったもんじゃないのですよ。

書く側の意識が低すぎるんだよな。幸い僕が知り合ったライターの方々はそんな人皆無だけれど。

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まぁいいや。言い過ぎました(笑)。

話を戻すと

当時はPヴァインからニュー・オーリンズものがリイシューされていたり、その他海外のレーベル、英ACEや仏パテなんかも積極的にリイシュー盤をリリースしていたので、比較的入手しやすい状況ではあったかもしれない。

ライノのオムニバス盤をきっかけに、ニュー・オーリンズの世界は広がりっぱなしだった大学3年の、時は1987年でありました。

以下次号

2010/01/28

僕が如何にしてNEW ORLEANSにハマッタか? その1

ポスト @ 13:57:47 | HAVANA通信連動企画

昨日の泥酔(昼1時まで!!)により、かなり体調が悪い(笑)。なので、ちょこっとずつ進めていきます。

それにしてもあんなに「はっぴいえんど」をまじめに聴いたのは何年ぶりだろうか・・・・いろんな裏話を教えてくださったSさん、ありがとうございました〜!!

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ということで、連動企画第一弾「底なし沼、NEW ORLEANSの魔力」ブログ版スタートです〜

本日のお話は

「僕が如何にしてNEW ORLEANSにハマッタか? その1」

です。

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大学時代の僕は、真面目なブルーズ・ギタリストだったのだ。

マディ・ウォーターズでブルーズの素晴らしさに開眼し、吾妻光良氏の「PLAY THE BLUES GUITAR」を1ページ目からメトロノームに合わせて、6畳一間の笹塚のアパートで延々とコピーしまくる根暗大学生だ。

そういえば吾妻さんの演奏を一度も観た事がない・・・・

そんな時、毎回購読していた「シティ・ロード」(懐かしいでしょ?)から吾妻さんの名前を探り当てた。

いつだったかな?おそらく大学3年の時だと思う。ということは1987年(昭和62年)だ。

場所はまだ紀伊国屋の裏手にあった「新宿ピット・イン」。あのションベン臭いところ。

ライブのタイトルは確か「吾妻光良ブルース・セッション」。

メンバーは、

吾妻さん:G 牧さん:B 岡地さん:Dr チャールズ清水:P

梅津さん:アルトサックス 片山さん:テナーサックス 板谷さん:トロンボーン

ゲストに

入道さん:Vo 小堀さん:G&Vo

だったはず・・・・メンバーを覚えている、ということはそれほど僕の中でインパクトがあったのだろう。

吾妻さんはバッパーズのファースト・アルバムで持っているチャキのフルアコを使ってた。

そのギタープレイは想像を絶するほど素晴らしく、僕のテキサス・スタイルへの傾向をより激しくしたのだが、

最も印象に残った曲がひとつあったのです。

それは岡地さんのカウベルの音から始まった。

リズムパターンは当時から愛聴していたボ・ディドリー風のジャングル・ビートだ。

吾妻さんの唄からは耳慣れない言葉が出てきた。どうやら英語には聞えない・・・・。

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そのライブの最後は入道氏のいつもの「スウィート・ホーム・シカゴ」で幕を閉じ、大満足で地下の店を後にし、新宿の街へ繰り出したのだが、その妙な唄とビートが頭の中から消えないのだった。

一緒に観に行っていた当時の彼女に僕は打ち明けた。

「あの変てこな言葉の曲、凄く気になるんだけど・・・・」

すると彼女はいとも簡単にこう言ったのだった。

「あぁ、アレね。『アイコ・アイコ』でしょ?ベルスターズがやってたよ」

ベル・スターズかぁ・・・ニュー・ウエーブの女子7人組のバンドだ。名前は聞いたことがあった。

「そうそう、元曲が入ってるオムニバス盤持ってるからテープに録ってあげるよ〜」

そういって、後日僕の元に届いたのが米国ライノ社から出ていた「A HISTORY OF NEW ORLEANS RHYTHM & BLUES Vol.1」というレコードを収めたカセット・テープだった。

そこに入っていたのは「IKO IKO」ではなく、「JOCK−A−MO」というタイトルだった。JAMES"SUGAR BOY"CRAWFORDという人が唄ってた。

そしてテープに入っていた全ての曲がポップで躍動感があって素晴らしかったのだ!!

「いや〜NEW ORLEANSかぁ・・・・なんかドップリはまりそうだなぁ・・・・」

ドップリどころではなく、結果的に人生まで狂わせてしまうとはこのとき思ってもみなかったのだが(笑)。

以下次号

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