2010/01/30

僕が如何にしてNEW ORLEANSにハマッタか? その2

ポスト @ 10:50:28 | HAVANA通信連動企画

さて、本日は僕の濃厚な大学3年生の時のお話・・・・

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とにかく「ニュー・オーリンズ」というキーワードは見つかった。

が、しかし!!

時代は遥か23年前の話である。この21世紀も10年経っている状況とは全く違うのだ。

いろんな事を知りたいにも、その術は非常に限られている。なんでもパソコンを開けて検索キーを入力すればある程度の知識を得られる世の中とは全く違う。

ましてやミクシーなるコミュニティ・サイトがあって顔の見えない「仲間」と誤解している人達がいるわけでもなく

いわんや「××ナウ」など意味不明な日本語完全崩壊の、一体おまえの日常を人に公開してなんのためになるのかまったく理解不能のツイッターなる本末転倒の道具があるわけでもないのだ(・・・いやいや、ゲーマーと同じくらい僕の中では現在軽蔑対象中です:笑 ツイッターやミクシーを嫌悪するのは僕の性癖もあるからで・・・・これまた別の機会に)。

情報を得るのにはとにかく歩くこと。

音楽の情報を得るのだから、行く先は決まっている。

レコード屋さんだ。

とにかくバイト代は、ほとんど音楽のために費やされた。飯代を浮かせるために飲食系のバイトに勤しんだ(結局これが今の仕事に繋がっているのだが・・・)。

僕の通っていた大学は御茶ノ水だ。駅から学校に行き着くまでにレコード屋があるわるわ(笑)。僕の日課は毎日ディスク・ユニオンの「新着箱」をチェックし、大学裏の「錦華公園」でビールを飲みながら収穫物を眺め、でそのまま帰る。よく卒業できたなぁ・・・・

それからお世話になったのは、青山の友人宅に向かう骨董通りの途中にあった伝説の「パイド・パイパー・ハウス」。猫背でデカイ気持ち悪いバイトの奴は、ピチカなんとかというくだらないバンドをやってた。ここの相場は高めだったけど、品揃えは良かった。なにせエルヴィス・コステロをして「ナンバー1レコード・ショップ・イン・ザ・ワールド」と言わしめたところだ。

それから西新宿の「ウッドストック」。中古盤はなかったけど、輸入ものの充実度はなかなかだった。

忘れちゃいけない、渋谷と吉祥寺の「芽瑠璃堂」。2階が中古盤、3階が輸入盤だった。店長のN山氏とはその後も付き合いが続く・・・。吉祥寺の品揃えもなかなかなもので。ここはアーフリーとかフライライトという一般社会からすると誰も知り得ないレーベルが異常に充実してた。中道通りにあったなぁ・・・・。

そしてこちらも日参していたのが、下北沢の「フラッシュ・ディスク・ランチ」と「レコ・ファン」。笹塚のアパートから歩いて15分くらいの距離だ。フラッシュの店長のTさんは僕の顔を覚えてくれるやいなや、とにかくいろんなレコードを僕に教えてくれた。プロフェッサー・ロングヘアとゲイトマウス・ブラウンの競演レコードなぞはこの人から「今日入ったよ!!」って教わった盤だ。

あとこの方からいろんな下北音楽系の飲み屋を紹介された。近藤フサノスケさんの店「STOMP」や「レイズ・ブギー(現ラ・カーニャ)」なんかはそうだった。

「君さぁ、とにかく飲んでいろんな人と知り合わないと!!!そういうために飲み屋はあるんだよ。一人でいろいろ追求するのも大事だけど、そういうところでいろんな人といろんな話をすればもっと世界が広がるよー!!」

って言ってくれたのも今に繋がってるんですよね。絶対本人は覚えてないだろうけど(笑)。今や言われる立場から言う立場になりました・・・・。

・・・懐かしいなぁ、今度ビラ置いてもらいに久しぶりに店に顔出そう・・・・シモキタ、もはや鬼門なんですけどね(笑)。

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数少ない情報を頼りに、いろいろ紐解いていく作業は大変だが、今から思うとあんなに充実していた時期もない。

そんな時に本当に助かったのが、レコード屋に置いてあるチラシやミニコミだったり、日本盤に付いている解説だったりしたのだ。

僕がいつからか日本盤を買わなくなってしまったのは、「解説」が「感想文」に成り果ててしまっているのが非常に多くなったから。僕らはそこから次に繋がる情報が欲しいわけで、感想を聞きたいわけではないのです。「どう思うか」もその人の顔が見えていれば大事なのかもしれないけれど、そうではない人にとったら、小学生の読書感想文みたいな文章を読まされて、輸入盤より高い金額をレコードやCDに払わされるのはたまったもんじゃないのですよ。

書く側の意識が低すぎるんだよな。幸い僕が知り合ったライターの方々はそんな人皆無だけれど。

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まぁいいや。言い過ぎました(笑)。

話を戻すと

当時はPヴァインからニュー・オーリンズものがリイシューされていたり、その他海外のレーベル、英ACEや仏パテなんかも積極的にリイシュー盤をリリースしていたので、比較的入手しやすい状況ではあったかもしれない。

ライノのオムニバス盤をきっかけに、ニュー・オーリンズの世界は広がりっぱなしだった大学3年の、時は1987年でありました。

以下次号